田島まいこ
プロフィール
私はこんな人生を歩んできました
1976年12月生まれ
私の曽祖母(写真左)は、名古屋生まれで、名古屋育ち!母曰く、金城女学校に通い、明治の人ながら讃美歌をオルガンで弾き英語で歌う、ハイカラなおばあちゃんだったそうです。同じ愛知県出身で参議院議員の市川房枝氏を物心共に支えていたと。
ちなみに右で半分顔が切れてしまっているのが、私の母です☺️。
子ども時代
良く笑うおてんばな子どもでした。写真は当時、近所でよく遊んだ友達と一緒に。背景に写っているのが、住んでいたマンションです。
当時熱中していたのは、縄跳び、鉄棒の逆上り(スカートを何度も破いた)、ドロケイなど。ドロケイは、敵の陣地の構図を考え、仲間と奇襲を試みるなど、暗くなるまで夢中で遊びました。
1992年4月 青山学院高等部入学
当時からガンコで一途でした。高校で熱中したフェンシング。同期で入った仲間が全員やめてしまっても一人で練習を続け、高校2年時には、私立高等学校フェンシング大会2年女子の部で準優勝しました。
当時の影響で、今でも筋トレとジョギングは大好きです。
高校時代のバイトは、巫女さん。神社巡りは、今でも大好きです。時間ができたら、日本各地をまわりたい。
1995年4月 青山学院大学国際政治経済学部入学
その後の田島まいこの人生を変えた、フィリピンへのスタディーツアー。貧困問題の根深さを学びました。大学三年時には、正規交換留学生として、米国の州立大学でシアトルに本拠地を置くワシントン大学(University of Washington, UW)に留学をしました。
大学時代は、「新党さきがけ」の学生部を通じて、政治に触れる機会を得ました。さきがけの平和主義や伝統を大事にす姿勢、そして質実国家の理念に共感しました。
写真はさきがけキャラバンに参加した時のもの。街宣車の上でマイクを持つ経験は、足が震えるほど緊張しましたが、楽しかった!
2003年6月 苦労して入った会計事務所をやめて、人道支援NGOへ
担当した仕事は、イラク難民支援プロジェクトの会計担当でした。
2005年6月 オックスフォード大学院修士課程終了
クラスで日本人はただ一人。世界の貧困・難民問題と人道支援について学びました。世界中から集まった学友達と時間を過ごしました。
2006年1月から2019年1月4日まで、 国連世界食糧計画 勤務
ラオス人民共和国では、貧困に苦しむ地域をターゲットに、子どもの教育の機会向上を目的とした学校給食プログラムを運営しました。
アルメニア共和国では、女性や若者の能力向上を目的としたプログラムで、これまでの経験や学びを話す機会を積極的に持ちました。
エジプト・アラブ共和国では、シリア、イエメン等、世界最大規模の人道危機に対応するため、プロジェクトの計画立案に携わりました。
最後の勤務地となった南アフリカ共和国では、管轄12カ国で行われていた全人道支援プロジェクトを対象に、SDGsの効果測定を主導しました。